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胡瑛 (湖南)[こ えい]
胡 瑛(こ えい)は、清末民初の政治家・軍人・革命家。中国同盟会以来の革命派人士。民国成立後に、一時は袁世凱の皇帝即位運動に加担した人物である。旧名は宗琬。字は経武。号は萱庵。祖籍は浙江省紹興府。なお、同じく中国同盟会に属し、後に孫文(孫中山)の側近となった雲南省出身の軍人にも、同姓同名の別人である胡瑛という人物が存在する。 == 事跡 ==
=== 革命派としての活動 === 16歳で長沙経正学校を卒業すると、胡瑛は革命派の活動に参加する。1904年(光緒30年)2月、胡は、黄興が組織した華興会に最年少の初期構成員として名を列ねた。同年3月には、武昌に赴き、華興会湖北支部総理となっている。 同年7月、胡瑛は長沙で科学補習所の創設に参加したが、革命蜂起に失敗して同所は閉鎖された。同年冬から鉄良暗殺を企んだが失敗し、日本に亡命した。最初は陸軍士官学校で学んだが、後に早稲田大学政治経済学部に転じている。 この年の8月に東京で中国同盟会が成立すると、胡も加入して評議員に選出された。1906年(光緒32年)12月、胡は孫文の指示により帰国し、湖北省で革命活動に再び従事した。しかし1907年(光緒33年)1月に、清朝により逮捕、収監されてしまう。1909年(宣統元年)夏、終身刑の判決を受けた。しかし獄中にありながらも、密かに革命派との連絡は取り合っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡瑛 (湖南)」の詳細全文を読む
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